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居合道修業上の心得
居合道は、日本刀により正しい刀法を学びつつ、身体の
運用を極めると共に、質実剛健・進取の気性を養い、且つ、
処世の大道に添う基を涵養するものである。依ってこの道
を学ばんとする者は、形より入って終生たゆまざる練磨と
努力により心身を鍛練すると共に、自ら人格の練成に努め、
自己の職域に於てもその万全を尽すよう心掛けるぺきであ
る。
換言すれば、居合道により心身を鍛練し、それを基とし
て天職に万全を期すべく努力すべきである。然して愈々習
熟すれば、何等形にとらわれることなく、道に基づく精神
に則り、只管自己完成に精進すべきであろう。古語に「術
に終期なし、死をもって終わりとなす」と、誠に至言であ
る。
- 1.良き師を選び、そうして師を尊ぶべきである。
- 良き師
を選ぶことほ非常に大切なことである。最初師を選ぶこ
とは難しいことであるが、先輩や知己友人等に訪ねて、
伝承的にも、環境的にも、良き師を選び定めることが極
めて大切なことである。
- 2.師の力量に惚れこんで一心不乱に精進すべきである。
- 師に惚れこむとは、師を唯一の師と考え、師の業前を全
部自分に摂取することであって、これが我々の修業上最
も大切なことである。勿論、師に心酔して学べば、自ら
師の癖まで吸収することとなるが、私はそれで良いと思
う。肺の癖が自己に移り得る程の精進でなければ、師の
業前を摂取することは難かしいと思われる。師の癖は、
後日上達した頃には直ちに取り除くことが出来るもので
あるし、また、それが師伝の特徴ともなるのである。師
の業前の殆どを摂取することが出来れば、後日先輩等よ
り種々教えられても、また、大会等で他者の演技を拝見
しても、直ちにそのものがいかなるものであるかの判断
が出来るものである。即ち、師の業前が基準となって判
断の基礎となるのである。俗に「遍路稽古」と言うのが
ある。その意は、諸所で物を乞い恵んでもらう遍路行脚
の人に喩えての意味で、ここかしこで少しづつ教えても
らう乞喰的な稽古を意味するのであろう。このような稽
古を重ねると、前述のように自己に確固たる業前の信念
を持つことが出来ないので嫌うのである。故に、良き師
を選ぴ修練を重ね、業前に確固たる信念を持つことは、
自己の終生の精進に極めて大切なことである。
- 3.師を永く尊ぶべきである。
- 戦後民主主義風潮のそれ故か、師より教えを請う間は
いかにも師と仰ぎ、一応業前全般を修得した後は自己の
利害等に事よせて、師を軽んずる傾向のあることは誠に
遺憾なことである。師の指導によって自己のあることを
思えば、師を忽せには出来ない筈であるが、業前全般を
終われば師弟の関係も終わるが如きは、誠に軽薄と言わ
ざるを得ない。いかに技法が師を凌ぎ優れるようになっ
たとしても、師は依然として師であり、我は門弟に過ぎ
ないことを忘れてはならない。幸い、私の師山本宅治先
生・森繁樹先生・福井春政先生・田岡伝先生の各先生が、
第十七代大江正路先生を神様のようにお慕いしていた関
係上、教えの中に、常に大江先生の偉大を賞揚されてい
たのを思えば、私には師を尊ぶ終生の鏡のように思えて
仕方がないのである。
- 4.修得上自己の系譜を尊ぶべきである
- 居合道を学ぶに及んでは、自己がいかなる系統にある
かを知っておくべきである。このことは、修業とは別問
題のように考えられるが、技法や段位の進むにつれて、
自己の立場が非常に大切なものとなるのである。
例えば当流に於ても、大江正路先生の正流を学んだも
のと、下村派の技法を学んだものとでは技法上少々の違
いがあるし、研究上何かと支障を来たすものである。若
しこのようなことを弁えず、両者混淆の演武をしてその
異なるところを知らないようでは、系統的伝承とはなり
得ないし、また、より深く業前を究めんとしても、その
矛盾に困ることもあり得るのである。
また修練の後、指導の任に当る場合に於ても、自己の
技法上の系譜がはっきりしておれば、それによって指導
は誠に容易でもあるし、自らも自信をもてるのである。
然し、自己の系譜がはっきりしなければ、質疑に対する
応答も、何かもの足らないものがあることは必定である。
これが修練上、指導上、自己の自信につながることは言
うまでもない。
- 5.面白味の出るまで修練すべきである
- 修練中よく中絶する者があるが、このような者には、
居合道とは誠に素っ気なく、或いは難しいもののように
感ずるものであろう。居合道でも剣道でも同様であるが、
面白味の出るまでよく辛抱し精進することである。当流
で言えば、正座之部は何とか修得したものの、立膝の部
で中断する者が比較的多いようである。私の経験でも、
立膝を完全に修得出来た頃には、居合道での連体も大体
会得出来て面白味が生じ始めるものである。それと共に、
業前に対する自信も少々ながら出来てきて、次の業前に
進むことが楽しくなるものである。このような気運にな
った時こそ、苦しかった過去の修練が実を結ぴ、俄に上
達の域を辿ると共に、この頃になって始めて居合道の真
価がわかり始めてくるものである。故に、苦しい時にこ
そ一層の精進を重ねて、苦難の壁を打破するよう努力す
べきであろう。この点は、我々の処世術にも当てはまる
ことである。「苦あれば楽あり」と舌口った先賢の言やま
た尊しである。
- 6.自己の修得した技法を徒らに固執しないこと
- 相当修練した者の中にも、ややもすれば自己の修得し
た技法が最良のものと信じ、他者の言を一向に聞き入れ
ようとしない者があるが、このような観念はいさぎよく
捨てるべきであろう。勿論その師の技法を信ずるのあま
り、本人よりすれば当然のようなことでもあろうが、人
それぞれに特技がある故、排他的になることはいかがか
と思われる。たとえそのような信念であろうと、一応他
者の言を聞き入れて自己の技法と比較検討し、一層奥深
い研究に精進すべきであろう。自負心の余りにも強い者
も、自己の進歩をきまたげることとなるものである。故
に、他者の言は一応心よく受け入れて、他者の良所を存
分に研究し、且つ咀嚼して、自己の修練を図る度量を持
ちたいものである。第十七代大江正路先生の指導要領を
門弟の先生方に伺って見ると、門弟達が種々工夫した技
法を見られても、「それもなかなか良いことだ。」と言わ
れ、直ちに否定したり修正しようとはされなかったし、
また、大江先生自身演武される時には、先生の信ずるま
まに堂々と演武されたので、門弟のかたがたも段々先生
の演武されたものを基準技法とされるようになったよう
である。決して一つの業に固執されなかったようである。
また、中には自己の技法を固執する余り、他者の門弟が
稽古に見えた時にも、自分の技法を強要するようなこと
は避けるべきである。その技法の異なるにしても、正邪
は何れにあるやも知れず、それぞれに理合はある筈であ
る。心して指導すべきである。
- 7.伝統技法の改訂は慎重にすべきである
- 最近、居合道技法の内容を演武し易いように自ら改訂
してゆくような点も感ずる。この点は、居合道試合に多
分に原因があるようにも思われる。何故ならば、試合に
は流暢に技法を演じ、然も見栄の良いものを選ぶからで
ある。私が修得した昭和三十年過ぎの技法と現在のもの
とを比較しても、次のようなものに変移を感ずる。
- (イ)血振るい
- 当流正座の業前での血振るいの刀先は、我が足元近
くにして、血は必ず自己の足元近くに振るい落すもの
ときれていたが、最近では横にする血振るい程に、刀
先を前方に高くあげて、格好良くやり易くして、丁度
血振るいは遠く前方に払うものであると言わんぱかり
に堂々とするものが多くなった。
- (ロ)居合腰の減少
- 居合腰は、左右の膝を少々左右に開き、体を落し、
出来るだけ下腹を前に出すようにした姿勢で、横方向
より見れば誠に無格好な姿勢であるが、これこそ居合
技法上、いかなる場合にも変幻自在の姿態とされたも
のである。然し、現在では両膝を軽く伸ばして、姿勢
よく立つ姿に変わって来たように見受けられる。
- (ハ)技法上腰の捻りが少なくなった
- 居合道技法で片手(右手)斬りの場合は、より良く
斬るために十分な腰の捻りを利用するものである。故
にこの捻りでは、後足(左足)が一時的には(瞬時)
撞木足近くまでなるものであるが、最近では撞木足を
嫌うことより、腰の捻りが非常に少なくなって来た。
例えば、「颪」の場合、顔面に柄当てしてよりの肩口
への斬り込みの場合には、私の恩師山本宅治先生は、
「背中で斬る程に十分腰を左に捻れ」と指導されたも
のである。この原因は剣道の如く、常に両足を前方に
真っ直ぐにすることを尊ぶことにも一因があると思う。
真により良く斬ることを主眼とすれば、腰の捻りが最
も大切であるが、剣道での如く姿勢正しくを主眼にす
れば、腰の捻りも少なくなるのである。
- (ニ)刀を振り冠った時の刀先が、背後の位置より段々高くなって来た。
- ・当流では、刀の振り冠りはその業前の性質より
豪快に斬る場合には、鍔が頭の後方にかくれる程
に、また、刀先は背後約四十五度ぐらいに振り冠る
ものとする。
・また、精妙に、即ち急を要する斬撃、例えば「抜
打」、「真向」のような場合には、刀を早く斬り下
ろすに支障のないような振り冠り、故に前記のよう
な上段での刀先は、頭の後方には至らず、頭上にあ
る程度のものである。
このように指導されたものであるが、最近では情況
の如何を問わず、左拳が前額の上辺りで、刀先は頭上
に高く振りかぶる一様のものとなって来た。
- (ホ)立業での斬り下ろしが殆ど腰の高さに止めるようになった。
- 当流では、相手の頭部に斬り付けた場合(例えば「
月影」「追風」の如き場合)と、出来得る限り斬り下
げたもの(膝の辺りまでに)との二様の方技があった。
最近、居合道試合が行われるようになってからは、刀
の斬り下ろしは総て腰の高さまでと言うことになって
しまった。これは、腰の高さ程に斬り下ろせば、斬撃
の効果十分であり、姿態としても非常に立派に見える
からであろうが、昔時は、必ず出来るだけ下方に斬り
下ろしたものである。この斬り下ろしの上下について
は、その実戦的理念は我々にはわかりようもないが、
この点私は、実戦的にはいずれが正しいかについては
疑念をもつ次第である。
以上は技法変移の主要なものであるが、昔時の、身を
拾てて斬り結ぶ場合の真に斬ることを主として考案され
実践された伝承の技法を、現在の平和な中で、ただ合理
的なりと考えられるが故に改訂されることはいかがなも
のかと思われるのである。若し改訂せんとすれば、その
技の理法を十分検討してなすべきものと考えられる次第
である。勝手気儘にする改訂は厳に慎むべきである。
- 8.素直に身につくまで修練し慢心してはならない。
- 指導を受ける場合は、素直に教わることが大切である。
そうして、その教えられた技法が真に身につくまで、即
ち考えなくとも自然に次々と体動し演武出来るまでに修
練すべきである。現在の指導方法は、何事も微に入り細
に亘り説明し指導する方法をとっている故、教わる者と
しては思考では十分わかりつつも、体の運用が思うに任
せないように見受けられる。大江正路先生の指導要領を
質して見ると、先ず模範を示し、だいたいの説明をした
後は、質疑や細部説明はせずにただ反覆訓練させ、それ
を見守りつつ、愈々わからなくて困っている時には、一
寸したヒント的な説明を与えて修練を重ねさせたようで
ある。渇に水を与えられるような指導方法と推測出来る。
現在の思考十分、修練未熟の状況とは全く逆の指導要領
である。それ故に指導を受けた場合は、先ずもってその
方技が身につき、自由に演武が出来るまでに修練するこ
とが大切である。指導者もこの点を十分に考慮する必要
がある。また指導する者も、指導を受ける者の技法に対
し慢心してはならない。例えば、試合に一度好成績を得
たことにより、自分の技法が最も優れていると慢心した
り、また、高段者になれば我れ至れりと信じたり、修練
を怠ったりすることは厳に慎しむべきである。
現在、七段・八段の高段を得て、始めてレールの上に
乗せていただいたようなもので、それからが自らの力で
動じ始め得るもの故、真の修練を積み重ねてより立派な
技法に入るべきものと私は考え、自らを励ましている次
第である。六段位までは、基本技法の修練の積み重ねで、
真にその状況に入り身につくのは七段・八段になって後
の、自らの心構えと修練如何によるものと私は考えてい
る。試合に好成績を得た故、自己の総ての業前が他者に
優れているように考えるのは、早計慢心そのままであり
厳に慎しむべきである。八段位になっても、益々心身共
に上達一途を辿る者、そのまま伸びの止まる者、何か下
手になってゆくように見える者の、三様があるように見
受けられる。この大きな原因は、修練の量の問題と伝統
技法に対する自信の問題であることを知るべきである。
術に終期なし、心して修練に励むべきである。
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